ヴィヴィアン・マイヤー展

amayadori
Nov 21, 2021

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L’expo de Vivian Dorothy Maier

今回は未発表の写真や、ヴィヴィアン・マイヤーが撮ったフィルムの映像も見ることができた。
特に動画は作家の視線だから、どんなことに興味を引かれて、どういう順番でものごとに気づき、どこを長いこと見ていたかったのかが感じられて、長い時間見てしまった。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真は前からなんとなく惹かれるものがあって、でもそれが写真自体の持つ何かなのか、世界の面白がりかたが自分に似ている気がするからなのか、彼女のユーモアが好きなのか、それとも撮ったものを誰にも見せずにおいたというその物語自体が興味に影響しているのか、見極めができなかった。
同時に、作者不在で作品を選別すること、展示をすること、それから写真家の写真を他人がトリミングして作品とすることをどう捉えたらいいのか…ということも同時に考えてしまって、なにかまっすぐな目線を持てない気がしていた。
(もちろん、アーカイブや未発表作品の発見や発表は貴重な機会だから、それ自体を否定するわけではない)

でもフィルム映像を見て、自分が今まで写真から感じていたことが、ちょっと腑に落ちたきがする。

途中胸がいっぱいになってふいに涙が出そうになった。
写真が美しいからとか優しいからとかまたは孤独だからとかではなく、何かを見るという行為は、世界を自分の見方で見るということは、たったひとり自分だけが出来ることなんだったというようなことを思ったからかな。私がこっそり世界を見ても、それは私の世界の中で完結しうる。誰にも共有したりうちあける必要はない。誰にあばかれることもない。
それは誰にもうばえない、自分だけのものなのだな。

L’expo de Vivian Dorothy Maier

彼女の視線が子供のように好奇心に溢れていて、でもニュートラルで、罪も醜いも良いも余計な感情もなくて、だからわたしは自分が世界をいつもこっそりのぞいてる気持ちだった子供の頃を思い出した。

自分が死んだら体と一緒になくなってしまうものを惜しんだり悲しんだりする感覚をずっと持っていたけど、でも黙ってそのまま秘密のうちにもってゆくものの方がむしろ、わたしが次に何を見たらいいかを教えてくれる。

自分が見たものや考えたことを身の内に留めずにすぐに発信してしまうことを、どこかで浅ましいことだと感じている。(そういう感覚がありつつも何かしら理由をつけてそれを続けているのだけれど。)
好奇心で動いているつもりでも、その先にはほんのりと「誰かに見せる」が目的としてあるということが、本当に見ることを邪魔している。そうやってまったく純粋じゃないものを、それと知りながら記録して、それと知りながら見せる。
私が人を撮れないのは、私と被写体だけの関係を他の人に暴くような気がするからで、それを覚悟するだけの決め手が私のなかにないのだった。

それでも何かを誰かに見せたい気持ちを否定するわけではなくて、ただそれが、どうしようもなくからだから溢れ、零れ落ちる前にインスタントに出してしまうことについて考えよう。
その戸惑いに今は慣れてしまっている。そういう慣れを恐れながら、慣れたことにほっとしてもいる。

L’expo de Vivian Dorothy Maier

ヴィヴィアン・マイヤーの写真を見ながら、私も自分が撮りたいものがもう少し撮りたいように撮れる技術を身につけるべきだったなと強く思う。技術の問題をクリアするのを怠ったせいで、いつも見たいものが撮れなかったから…。

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